太郎山頂上−5度、下界は−2度新雪が15センチくらい積もり歩きず

さらさらした、少し湿った新雪が15センチ〜20センチくらいあったので、今朝は、歩きずらい事、この上なし・・・。

ちょっとした傾斜があると、踏み出した足がズルッズルッと滑り、登りは、非常にロスがあった・・・。

幸い、ストックを手にしていたので、ストックを強く地面に打ち込み、手でしっかり地面を捉え、体を引き上げていった・・・。

今朝は、4本爪のアイゼンが、登りでも有効だったかもしれない・・・。

いつも、荷物を背負子で10キロくらいボッカをして、登ってくる60代後半くらいのおじさんがアイゼンを履いて、ホイホイと頂上まで登ってきたので、今日はアイゼンを履いて登ってきた人の大勝利の日だった・・・。

とてもじゃないが、足元がズルズルしているところで、少し加重のある荷物など、通常、とんでもない話だ・・・。



「太郎山を楽しむ会」の新年会を、1月29日(日)に、上田市内・老舗のMANGIKUでやる事になった・・・。
どうやら、昔から、新年会はここでやっているらしい・・・。

IWSHIさんとKANEさん、SAKAさんHARAUさんにも、「声かけ」だけは、しなければと思う・・・。

昨夜、上田市民劇場の1月の初日講演が市民会館であった・・・。

佐藤千夜子の生涯を、一人4役くらいで劇団員全員で演じていた・・・。

あの「中山晋平」をして、「僕の歌には君が必要なんだ・・・」と言わしめた昭和の歌姫も、戦後は、不遇の生涯をたどったようだ・・・。最後は野垂れ死にに近い、孤独な死に方をしている・・・。

どうやら、世話になった中山晋平の葬儀にも出る事が出来なかったし、外遊をし、不義理をしたために、以前の仲間の前にさえ、顔を出す事が、かなわなかったらしい・・・。

「はぶの港」、「枯れススキ」、「東京行進曲」など、庶民に親しみやすい、当時の名曲の数々を、中山晋平、野口雨情らと供に、世に広める役目を担った歌手。
山形県天童市出身で、上京し、東京音楽大学を経て、晋平らとともに昭和歌謡を世に広める。レコードの発達と共に爆発的な流行歌の世界を作った・・・。